西尾維新『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)

 古今東西の天才が集まった島での事件からちょうど一ヵ月後、いーちゃんは京都の大学で同回生の葵井巫女子と出会った。何かと彼にアプローチをかけてくる巫女子に誘われ、いーちゃんは彼女の友人の誕生日パーティに招待される。
 ちょうど同じ頃、京都では通り魔殺人がちょっとした事件になっていた。既に殺害人数は無視できるものではなかったが、いーちゃんは偶然にもその殺人鬼と遭遇する。いや、それは偶然ではなかったのだろう。零崎人識と名乗る殺人鬼は、いーちゃんのもう一つの「可能性」だったのだから。
 いーちゃんは巫女子の友人である江本智恵の誕生日パーティに参加するが、翌日になってその江本が何者かに絞殺されたことを知るのだった――。


 と、あらすじにもなっていないあらすじを毎回「一応」書いてみるわけだが、今回ほどそのあらすじが無意味に帰す思いを味わう作品もそうあるまい。

 西尾維新の作品を読むのはこれでまだ二作目であり、そんな私が現状で西尾維新の評価を下すことなどできるわけもないのだが、殊にこの作品について思うのは、この作品にミステリを求めてはいけない、ということである。通常のミステリが有する、謎解きの要素はほぼ皆無であり、そこにはいーちゃんをはじめとする個性的な――個性的過ぎてむしろ「歪な」――人物達の極めて特異な思想が描かれている。

 『スカイ・クロラ』にしてもそうだが、「死んでもかまわない」というある意味で子供っぽい妄言を、しかし読み応えのあるレベルにまで昇華させるのは非常に難しいだろう。「死んでもかまわない」という「非」刹那的な妄言は、思春期とその周辺にいる者達には当たり前のこととして扱われるからだ。そのことをただありのままに書くのではなく、人間らしい感情が持てないという理由を絡めた上で、生きるとはどういうことか、他者と接するとはどういうことかを西尾維新のテイストで踏み込んで描くことで、妄言は異彩を放ち始めるのである。

 まだ二作しか読み終えていないが、私には西尾維新の小説が或る意味で一般人への憎悪を含有しているように感じる。彼の作品にはこれでもかというほどに、普通の人が出てこない。出てくる人物はどれもキワモノ揃い。そこには普通に生きる人間に対して「普通ってなんだよ?」という当たり前の問いを突きつける姿勢と、キワモノとして扱われる人間に対して「お前達はそのままでいいんだ」という言葉を投げかける温かさが私には見える。正常と異常、普通と特殊、普遍と可変……以下延々と続く線引きに対して、西尾維新は真っ向から異を唱えている、そんな感覚がこの小説からは伝わってくるのである。

 とはいえ、繰り返すが私はまだ西尾維新の作品を殆ど読み終えていない。今後彼の作品を読み続けていく中で、現在抱いているこの感想がどのように変化していくのか。それがひどく楽しみでもある。