池上永一『テンペスト』

テンペスト  上 若夏の巻

テンペスト 上 若夏の巻

テンペスト 下 花風の巻

テンペスト 下 花風の巻

 幕末の琉球王国。清国と薩摩との間で二枚舌を使い分けるこの国には、答えのない所に答えを導き出すことのできる人材が必要である。優れた人材を登用するために、中国の科挙に倣って設けられた科試制度は、しかし男子しか受けることが許されない。

 今この地に、一人の少女がいる。名を真鶴という。類稀な知性と美貌を備え、そして第一尚氏の末裔である彼女は、自身を宦官と偽り、名を孫寧温と変えることで科試を通過する。それは華やかな政治家人生の始まりではなく、困難と隣り合わせな琉球の歴史に沿った、怒涛の人生の幕開けであった。外国船の難破、清国より派遣される宦官、そしてペリー来航、琉球を襲う脅威に対し、彼女はその知性を存分に発揮してゆく。だが彼女はこの時まだ知るよしもなかった。琉球が日本に組み込まれてしまうその史実を。

 
 多少ネタバレになってしまうが、上巻は孫寧温としての目線で迫り来る脅威に持ち前の頭脳を発揮しながらも、様々な不幸に遭う話であり、下巻は真鶴としての目線で立場を変えながらも、琉球の没落までを見届けてゆく話である。宦官になりすますという、性の境界を越えた存在としての美しい主人公というのは、もうそれだけで美味しいネタであるが(しかも物凄く賢い)、それを約800ページにも及ぶ壮大なスケールで読者を飽きさせずにつなげてゆく池上永一の技量には、ただただ驚嘆である。

 もうとにかく、寧温がこれでもかというほど苛められる。中には陰惨な場面も含まれるが、最初からスペックの高い主人公を容赦なく苛め抜くことで、性を偽り王宮に入った者の人生の過酷さがうまく表現されている。

 そして二重の性に苦しむ寧温の葛藤が、彼女の内面をどんどん掘り下げていき、そして宦官の政治家としての彼女の人生を紡いでゆく。いち政治家としての彼女は、しかし下巻で少しずつその生き方を変えてゆくことになる。自身の中で死んだはずの真鶴が再び目覚め始め、やがて母としての行き方を知るのである。このあたりの性の二重性は、ただ単に魅力的な装置という枠ではなく、真鶴≠寧温という相容れない人格と、それに苦しむ彼女の生き様を描いている。
 
 面白いのはしかしこれが二重人格や性同一性障害といったものではなく、身体は女性、心は「男ではなく宦官」であろうとしていることである。性から解き放たれた存在としての宦官になろうとする彼女は、内面では上に挙げたような葛藤のせいで、そして外面では類稀な知性と、どうしようもなく女性であることを映し出す美貌のせいで、嫌でも自分が性のしがらみから抜け出せない。宦官として生きようとする彼女は、どこまでも女性であることを隠しきれないのである。

 彼女がたどりついた未来には、かつての美しい琉球王国は存在しない。だが国は滅びても、そこに土地は残り、人々は生き続ける。幼い頃にその真理を悟っていたはずの真鶴は、自分は一体何のために戦ってきたのかという嘆きをもらすことはない。彼女の胸にあるのは、もうあの美しい琉球王国を見ることはできないのだという残酷な事実への悲しみだけだ。そうして日本に、琉球の美しき信念を受け継いでくれという一縷の望みを託すことになるのである。全編を通じて何度も現れるこの想いは、沖縄で育ち、沖縄を舞台に小説を書く池上永一が少なからず持つ本心なのだろう。