飛浩隆『ラギッド・ガール 廃園の天使Ⅱ』

 

 仮想リゾート〈数値海岸〉をめぐる5つの短・中編集。前作『グラン・ヴァカンス』の登場人物、ジュリーとジョゼの出会いと、区画の風景を鮮やかに描いた「夏の硝視体」、直感像的全身感覚の持ち主である阿形渓と〈情報的似姿〉開発メンバーの一人であるアンナ・カスキの邂逅、〈情報的似姿〉が現実へ描出されていく、そして本体と似姿の区別が曖昧にされてゆく課程をたどった表題作「ラギッド・ガール」、500回の死を上書きされ死んだカイルの〈情報的似姿〉に振れるガウリが、彼の死の真相にたどり着こうとする様子をホラータッチで描写する「クローゼット」、記憶のないAIのサビーナと、その記憶を取り戻そうとするゲストのレオーシュ、AIの〈人権〉を訴えるジョヴァンナ・ダークへのインタビュー、〈数値海岸〉と現実が交差し、〈大途絶〉の理由と、〈数値海岸〉でのプログラムへの直接介入の様子が朧気ながらに明かされる〈魔述師〉、蜘蛛の王ランゴーニの幼少期の様子から、蜘蛛衆の王としての帰還までを描く「蜘蛛の王」。いずれも前作『グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ』では謎とされていた部分の単なる回答にとどまらず、AIの意志や現実空間への数値情報の介入など、創造力の限界を追求せんと作品集となっている。

 人間ではないモノに、あたかも人間のような「意志」がある。このあたりのテーマは神林長平に通ずるものがありながらも、飛と神林のアプローチは微妙にベクトルが異なる。神林は「雪風シリーズ」の雪風やジャムのように、我々人間とは異なるモノを通じて、そもそも意志とは何か、人間以外に意志は存在するのかを問いかけるように見えるが、飛は〈数値海岸〉のAIという限りなく人間に近い存在(年をとらず、出産できないことなどを除けば、小数点以下の誤差の範囲内で人間に近い)を通じて、そのAIが存在する世界全体を問い、AIそのものに意志があると仮定した上で(前提ではなく)、そうした意志の集合体が暮らす〈数値海岸〉は果たして現実か、そもそも現実とは一体何なのか、というマクロの視点から疑問を投げかけているように見える。

 あとがきの「ノート」で、飛は面白い呟きを残す。購入して数ヶ月でクラッシュしたPCのハードディスクを思い、こう記している。

 それにしてもハードディスクの中のデータたちはどうしているだろう。いずれ廃棄されるとは知る由もないだろう。スパムメールの断片とか、くだらないブックマークとか、三百枚くらいある次回作の書きかけとかが、ひっそりと、まだ残っているだろう。そのデータたちが飛と会うことは、二度とない。
 こうしてみると、いまも、世界中で無数の〈小途絶〉が起こっているのだ。


 我々は現実に生活している。その中で、我々は情報に触れる。インターネット、テレビ、ゲーム、音楽、そして本。映像と活字と音。我々は情報が紡ぐ「世界」を享受し、そしていつしか廃棄してゆく。いやそもそも、享受しなかった世界は廃棄されることなく、ただの媒体として取り残され、またデータの断片として人知れず積み重なってゆく。あたかもPC内のキャッシュのように。

 そうした世界は、我々が享受していない状態ではどうなっているのだろう。時に我々を嬉しくも悲しくもさせるそうした世界は、我々の現実と接続される時に、我々を揺さぶる。そして接続を解除すると、その世界は消えて――いないのではないだろうか。我々の世界との接続は解除されても、我々が認識していない今この瞬間にも、そこにはやはり、情報が紡ぐ世界が存在しているのだと言えるのではないか。接続すればいつでも認識できるというのに。そう考えると、現実とは何も我々の世界のことだけではなく、そもそも我々の世界すら唯一の現実ではなく、常に無数の現実と我々の現実が接続と小途絶と大途絶を繰り返しているような気になってくる。

 そして飛の世界は、現実世界に、そうした情報が介入してくる様子を提示する。「ラギッド・ガール」、「クローゼット」のように、視床カードを挿入した人間は、現実の中に無数の情報の装飾を認識する。それは現実とやはり小数点以下の誤差しかなく、すでに現実にあるものとして当然のように受け入れられている。無数の接続による世界の拡張、それは我々人間が持つ技術がその水準に達していないがゆえに、SF的な言説に聞こえるかもしれないが、しかし何のことはない、程度の差はあれ、我々の現実世界でも今も当然のように起こっていることなのだろう。