飛浩隆『ラギッド・ガール 廃園の天使Ⅱ』

 

 仮想リゾート〈数値海岸〉をめぐる5つの短・中編集。前作『グラン・ヴァカンス』の登場人物、ジュリーとジョゼの出会いと、区画の風景を鮮やかに描いた「夏の硝視体」、直感像的全身感覚の持ち主である阿形渓と〈情報的似姿〉開発メンバーの一人であるアンナ・カスキの邂逅、〈情報的似姿〉が現実へ描出されていく、そして本体と似姿の区別が曖昧にされてゆく課程をたどった表題作「ラギッド・ガール」、500回の死を上書きされ死んだカイルの〈情報的似姿〉に振れるガウリが、彼の死の真相にたどり着こうとする様子をホラータッチで描写する「クローゼット」、記憶のないAIのサビーナと、その記憶を取り戻そうとするゲストのレオーシュ、AIの〈人権〉を訴えるジョヴァンナ・ダークへのインタビュー、〈数値海岸〉と現実が交差し、〈大途絶〉の理由と、〈数値海岸〉でのプログラムへの直接介入の様子が朧気ながらに明かされる〈魔述師〉、蜘蛛の王ランゴーニの幼少期の様子から、蜘蛛衆の王としての帰還までを描く「蜘蛛の王」。いずれも前作『グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ』では謎とされていた部分の単なる回答にとどまらず、AIの意志や現実空間への数値情報の介入など、創造力の限界を追求せんと作品集となっている。

 人間ではないモノに、あたかも人間のような「意志」がある。このあたりのテーマは神林長平に通ずるものがありながらも、飛と神林のアプローチは微妙にベクトルが異なる。神林は「雪風シリーズ」の雪風やジャムのように、我々人間とは異なるモノを通じて、そもそも意志とは何か、人間以外に意志は存在するのかを問いかけるように見えるが、飛は〈数値海岸〉のAIという限りなく人間に近い存在(年をとらず、出産できないことなどを除けば、小数点以下の誤差の範囲内で人間に近い)を通じて、そのAIが存在する世界全体を問い、AIそのものに意志があると仮定した上で(前提ではなく)、そうした意志の集合体が暮らす〈数値海岸〉は果たして現実か、そもそも現実とは一体何なのか、というマクロの視点から疑問を投げかけているように見える。

 あとがきの「ノート」で、飛は面白い呟きを残す。購入して数ヶ月でクラッシュしたPCのハードディスクを思い、こう記している。

 それにしてもハードディスクの中のデータたちはどうしているだろう。いずれ廃棄されるとは知る由もないだろう。スパムメールの断片とか、くだらないブックマークとか、三百枚くらいある次回作の書きかけとかが、ひっそりと、まだ残っているだろう。そのデータたちが飛と会うことは、二度とない。
 こうしてみると、いまも、世界中で無数の〈小途絶〉が起こっているのだ。


 我々は現実に生活している。その中で、我々は情報に触れる。インターネット、テレビ、ゲーム、音楽、そして本。映像と活字と音。我々は情報が紡ぐ「世界」を享受し、そしていつしか廃棄してゆく。いやそもそも、享受しなかった世界は廃棄されることなく、ただの媒体として取り残され、またデータの断片として人知れず積み重なってゆく。あたかもPC内のキャッシュのように。

 そうした世界は、我々が享受していない状態ではどうなっているのだろう。時に我々を嬉しくも悲しくもさせるそうした世界は、我々の現実と接続される時に、我々を揺さぶる。そして接続を解除すると、その世界は消えて――いないのではないだろうか。我々の世界との接続は解除されても、我々が認識していない今この瞬間にも、そこにはやはり、情報が紡ぐ世界が存在しているのだと言えるのではないか。接続すればいつでも認識できるというのに。そう考えると、現実とは何も我々の世界のことだけではなく、そもそも我々の世界すら唯一の現実ではなく、常に無数の現実と我々の現実が接続と小途絶と大途絶を繰り返しているような気になってくる。

 そして飛の世界は、現実世界に、そうした情報が介入してくる様子を提示する。「ラギッド・ガール」、「クローゼット」のように、視床カードを挿入した人間は、現実の中に無数の情報の装飾を認識する。それは現実とやはり小数点以下の誤差しかなく、すでに現実にあるものとして当然のように受け入れられている。無数の接続による世界の拡張、それは我々人間が持つ技術がその水準に達していないがゆえに、SF的な言説に聞こえるかもしれないが、しかし何のことはない、程度の差はあれ、我々の現実世界でも今も当然のように起こっていることなのだろう。

池上永一『テンペスト』

テンペスト  上 若夏の巻

テンペスト 上 若夏の巻

テンペスト 下 花風の巻

テンペスト 下 花風の巻

 幕末の琉球王国。清国と薩摩との間で二枚舌を使い分けるこの国には、答えのない所に答えを導き出すことのできる人材が必要である。優れた人材を登用するために、中国の科挙に倣って設けられた科試制度は、しかし男子しか受けることが許されない。

 今この地に、一人の少女がいる。名を真鶴という。類稀な知性と美貌を備え、そして第一尚氏の末裔である彼女は、自身を宦官と偽り、名を孫寧温と変えることで科試を通過する。それは華やかな政治家人生の始まりではなく、困難と隣り合わせな琉球の歴史に沿った、怒涛の人生の幕開けであった。外国船の難破、清国より派遣される宦官、そしてペリー来航、琉球を襲う脅威に対し、彼女はその知性を存分に発揮してゆく。だが彼女はこの時まだ知るよしもなかった。琉球が日本に組み込まれてしまうその史実を。

 
 多少ネタバレになってしまうが、上巻は孫寧温としての目線で迫り来る脅威に持ち前の頭脳を発揮しながらも、様々な不幸に遭う話であり、下巻は真鶴としての目線で立場を変えながらも、琉球の没落までを見届けてゆく話である。宦官になりすますという、性の境界を越えた存在としての美しい主人公というのは、もうそれだけで美味しいネタであるが(しかも物凄く賢い)、それを約800ページにも及ぶ壮大なスケールで読者を飽きさせずにつなげてゆく池上永一の技量には、ただただ驚嘆である。

 もうとにかく、寧温がこれでもかというほど苛められる。中には陰惨な場面も含まれるが、最初からスペックの高い主人公を容赦なく苛め抜くことで、性を偽り王宮に入った者の人生の過酷さがうまく表現されている。

 そして二重の性に苦しむ寧温の葛藤が、彼女の内面をどんどん掘り下げていき、そして宦官の政治家としての彼女の人生を紡いでゆく。いち政治家としての彼女は、しかし下巻で少しずつその生き方を変えてゆくことになる。自身の中で死んだはずの真鶴が再び目覚め始め、やがて母としての行き方を知るのである。このあたりの性の二重性は、ただ単に魅力的な装置という枠ではなく、真鶴≠寧温という相容れない人格と、それに苦しむ彼女の生き様を描いている。
 
 面白いのはしかしこれが二重人格や性同一性障害といったものではなく、身体は女性、心は「男ではなく宦官」であろうとしていることである。性から解き放たれた存在としての宦官になろうとする彼女は、内面では上に挙げたような葛藤のせいで、そして外面では類稀な知性と、どうしようもなく女性であることを映し出す美貌のせいで、嫌でも自分が性のしがらみから抜け出せない。宦官として生きようとする彼女は、どこまでも女性であることを隠しきれないのである。

 彼女がたどりついた未来には、かつての美しい琉球王国は存在しない。だが国は滅びても、そこに土地は残り、人々は生き続ける。幼い頃にその真理を悟っていたはずの真鶴は、自分は一体何のために戦ってきたのかという嘆きをもらすことはない。彼女の胸にあるのは、もうあの美しい琉球王国を見ることはできないのだという残酷な事実への悲しみだけだ。そうして日本に、琉球の美しき信念を受け継いでくれという一縷の望みを託すことになるのである。全編を通じて何度も現れるこの想いは、沖縄で育ち、沖縄を舞台に小説を書く池上永一が少なからず持つ本心なのだろう。

筒井康隆『パプリカ』

パプリカ (新潮文庫)

パプリカ (新潮文庫)

 人の見る夢に直接介入することで、精神病の治療を行うサイコセラピーの第一人者、千葉敦子は同僚で治療機器の開発を行う時田浩作と共に、ノーベル賞の最有力候補といわれていた。だが研究者である千葉はもう一つの顔を隠し持っている。精神病に罹っていることを秘匿したい要人専門のセラピスト。彼女は妖しい魅力を秘めた少女の容姿となり、患者のトラウマを探し当ててゆく――人は彼女を「パプリカ」と呼んだ。

 正体を隠しながらパプリカとして治療を続ける千葉。そんなある時、時田の最新作である「DCミニ」が何者かに盗まれてしまう。頭に付けるだけでだれでも夢の世界へと介入できるようになるこの機器は、使い方次第で相手の精神を容易に崩壊させることもできる、極めて危険な代物だった。一人、また一人と千葉の周りにいる人々が巻き込まれてゆく。彼女はなんとかしてDCミニを手に入れ、犯人と対決しようと試みる。DCミニが持つ、本当の力を知らぬままに。

 
 「夢」はきわめて扱いづらいテーマの一つであると思うのだが、さすがは筒井康隆。それを見事なまでに昇華させている。最初はただ千葉が勤める研究所での出来事と、患者個人の夢に焦点が当てられているが、やがて個人の夢はDCミニを装着した他人の夢に浸食されてゆき、それは現実の個人に影響を及ぼし始める。そしてDCミニの力はますます強力なものとなり、やがて強く念じるだけで時間と空間は易々と飛び越えられてしまい、それはついに現実と夢の境界線も無へといざなう。夢の中でしか存在しなかったはずの生物が現界し、それに対抗するために人間もまた、夢の中でしかできなかったことを現実の世界で行うようになる。エントロピーの増大から暴走へ――もうこれ以上は無理だというところで、物語はようやく収束する。

 魑魅魍魎が跋扈し、それに立ち向かう超人のありえない行動に読者は散々振り回されるのだが、最後の最後で、はたと気付かされる。その不可思議な出来事は果たして現実だったのか、それとも夢だったのか。そう、夢と現実の境界線が消失したときから、読者もまたこの作品が夢なのか現実なのかが区別できなくなってしまっているのである。

 いや、本当は読者は既に気がついていたのだ。だがそのことを筒井が最後にきちんと指摘して終わることで、この作品は完結したものとなる。「夢が現実を浸食する」という命題が存在するとして、果たして侵食された現実は現実のままなのか、それとも侵食された時点で夢に転換されるのだろうか。そんな問いをこの小説から投げかけられているような気がするが、ひとつだけ確実に言えるのは、夢とは途方もなく混沌としている、ということだ。それが筒井康隆のものであるならば、なおさらである。

来楽零『哀しみキメラⅢ』『哀しみキメラⅣ』

哀しみキメラ〈3〉 (電撃文庫)

哀しみキメラ〈3〉 (電撃文庫)

哀しみキメラ〈4〉 (電撃文庫)

哀しみキメラ〈4〉 (電撃文庫)

 

 <Ⅲ>
 蠱毒となった霊的<モノ>を喰らった水藤の身体はようやく回復した。だが身体とは反比例に、彼の精神は刹那的な側面を覗かせるようになる。一方、純もまたキメラである自分の身体がひどく不安定になっていることに気がつく。時折低下する身体能力、それはキメラとしての能力を失い始めているこに他ならなかった。

 モノ祓い師から身を隠すようにして選んだ次の隠れ家は、一度離れたはずの東京、その近郊だった。生活費を稼ぐために彼らはアルバイトを始めるが、水藤のバイト先である学習塾では、奇妙な噂が広まっていた。

 願いがあるならば、階段を上れ――

 それは一枚の紙切れに記された人為的なメッセージだったが、噂は小学生の中でどんどん肥大していた。そしてついに、噂を突き止めようとした子供達の中に行方不明者が現れる。消息を絶った生徒のクラスメイトである麻生穂高と紺野勇輝は捜索を始めるが、その裏には複雑な想いが隠されていた。噂の陰に<モノ>の存在を感じ取った純たちは、彼らに協力する形で噂の真相を突き止めようとするが……。

 <Ⅳ>
 綾佳と二人だけになってしまった純。モノと人間の狭間をゆらぐ身体に、純はキメラとしての成長が行き詰りかけているのを感じ始めていた。一方で綾佳もまた、モノを喰うことができなくなってしまった自分の体のことを、純に話せないままでいた。互いに不安を抱いたまま、キメラとしての生は過ぎてゆく。

 モノを糧として生きてきた二人にとって、飢えは限界に来ていた。そんなとき、京都にあるモノを封じるための結界が再び破れ始めていることを知る。かつては自分達の手で破ったその結界を、再び破ろうとするのは誰か。淳たちは糧を得る為に、そして人間らしくあるために、事件の解決を試みる。たとえ偽善者と呼ばれようとも。だが京都では、思わぬ再会が純と綾佳を待ち構えていた。

 
 以前にも述べたが、この作品はバトルものではない。キメラとなってしまった人間が、それでも人間でありたいという葛藤を描いている作品である。特にⅢとⅣでは人間らしくありたいと願う純と、人間であることを諦めてしまった者との衝突が綺麗なコントラストを生み出していて、悪くない。特に、異質なものへと変化してしまった「元」人間の苦悩という既に古典的なテーマを、きちんと最後まで妥協なく描くことが出来たことには賞賛されるべきだろう。

 欲を言えばもう少しインパクトが欲しかったところか。特に人間であった頃の過去がわかるのは純と水藤だけであり、その過去もⅠではメインで描かれながらも、以降はさらっと流されているので、少し物足りない。彼らキメラを利用しようとする仙谷もちょっと小物過ぎて、障害として機能していない感じがする。

 結末はとてもよかった。よかったというか、もうこの結末しかありえないと言える終わり方だった。少し考えれば誰でも思いつきそうで、しかし誰もが納得する結末。若干ネタバレになるかもしれないが、Ⅳの表紙に十文字が写っていた理由がとても腑に落ちるのを感じることができた。もちろん読者の多くはこの結末をハッピーエンドとは呼ばないだろうけれども。

 また安易に純と綾佳をくっつけなかったのも注目すべきだ。水藤と、そして十文字を含め、彼らは不幸にもキメラとなってしまった「被害者」だが、そこには傷を舐めあうような意識も、誤解を恐れずに書くならば被害者特有の特権的な意識もない。彼らにあるのは自分達が新たな生き物として、人間とは一線を画さなければならないという意識と、しかしそれでも人間らしくありたいという葛藤である。その思いが一致しているからこそ彼らは共に行動しているのである。

 そしていきなり真逆のことを述べるのだが、そうした思いを抱えながらも、彼らは互いを少なからず想っているのである。こんな矛盾した思いを抱える彼らを、人間らしいと言わずしてなんというのか――来楽零はこの点に果敢に挑んたと言えるだろう。そしてあと少しのインパクトがあれば……と繰り返すことはもうしないが、その点については次回作に期待したいと思う。何にせよ、Ⅰを読んだときに何故か「この作家は面白い」と感じてしまった期待を、まだ裏切ってもらうわけにはいかない。

西尾維新『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)

 古今東西の天才が集まった島での事件からちょうど一ヵ月後、いーちゃんは京都の大学で同回生の葵井巫女子と出会った。何かと彼にアプローチをかけてくる巫女子に誘われ、いーちゃんは彼女の友人の誕生日パーティに招待される。
 ちょうど同じ頃、京都では通り魔殺人がちょっとした事件になっていた。既に殺害人数は無視できるものではなかったが、いーちゃんは偶然にもその殺人鬼と遭遇する。いや、それは偶然ではなかったのだろう。零崎人識と名乗る殺人鬼は、いーちゃんのもう一つの「可能性」だったのだから。
 いーちゃんは巫女子の友人である江本智恵の誕生日パーティに参加するが、翌日になってその江本が何者かに絞殺されたことを知るのだった――。


 と、あらすじにもなっていないあらすじを毎回「一応」書いてみるわけだが、今回ほどそのあらすじが無意味に帰す思いを味わう作品もそうあるまい。

 西尾維新の作品を読むのはこれでまだ二作目であり、そんな私が現状で西尾維新の評価を下すことなどできるわけもないのだが、殊にこの作品について思うのは、この作品にミステリを求めてはいけない、ということである。通常のミステリが有する、謎解きの要素はほぼ皆無であり、そこにはいーちゃんをはじめとする個性的な――個性的過ぎてむしろ「歪な」――人物達の極めて特異な思想が描かれている。

 『スカイ・クロラ』にしてもそうだが、「死んでもかまわない」というある意味で子供っぽい妄言を、しかし読み応えのあるレベルにまで昇華させるのは非常に難しいだろう。「死んでもかまわない」という「非」刹那的な妄言は、思春期とその周辺にいる者達には当たり前のこととして扱われるからだ。そのことをただありのままに書くのではなく、人間らしい感情が持てないという理由を絡めた上で、生きるとはどういうことか、他者と接するとはどういうことかを西尾維新のテイストで踏み込んで描くことで、妄言は異彩を放ち始めるのである。

 まだ二作しか読み終えていないが、私には西尾維新の小説が或る意味で一般人への憎悪を含有しているように感じる。彼の作品にはこれでもかというほどに、普通の人が出てこない。出てくる人物はどれもキワモノ揃い。そこには普通に生きる人間に対して「普通ってなんだよ?」という当たり前の問いを突きつける姿勢と、キワモノとして扱われる人間に対して「お前達はそのままでいいんだ」という言葉を投げかける温かさが私には見える。正常と異常、普通と特殊、普遍と可変……以下延々と続く線引きに対して、西尾維新は真っ向から異を唱えている、そんな感覚がこの小説からは伝わってくるのである。

 とはいえ、繰り返すが私はまだ西尾維新の作品を殆ど読み終えていない。今後彼の作品を読み続けていく中で、現在抱いているこの感想がどのように変化していくのか。それがひどく楽しみでもある。

三雲岳斗『少女ノイズ』

少女ノイズ

少女ノイズ

 過去のトラウマから天空恐怖症(アストロフォビア)に悩まされる大学生、高須賀克志(スカ)はアルバイト先の予備校で或る少女と出会う。彼女の名は斎宮瞑――スカは自身が通う大学の准教授である皆瀬梨夏から、予備校で瞑の担当のアルバイトを頼まれていた。だがその内容は瞑の講師ではなく、ただ彼女が変なことをしでかさないように見張る、いわば世話係の役目であった。瞑は授業に出席することはなく、予備校内の立ち入り禁止区域で死んだように佇むだけ。だが彼女がそうするのには理由があった。

 高須賀の天空恐怖症に気がつく瞑は、高須賀に興味を覚える。そして彼女が有する類稀な洞察力は、スカの周りに起こる様々な事件を解決へと導いてゆく。きわめて鮮やかな論理を展開する彼女であったが、しかし彼女はまた別のところで大きな問題を背負っていたのだった。


 三雲岳斗の小説を読むのは初めてであるが、帯に記された「美しく冷徹な論理」というフレーズはまさにその通りであると思えた。瞑とスカの周りに起こる謎には、たった1打のゴルフボールでなぎ倒された案山子の群れや、瞑がなぜ予備校で勝手な振る舞いをしていられるのかといった、いわゆる「日常の謎」に類されるものもあれば、操作が難航している不可解な殺人事件もある。それをクールでどこか影のある美少女・斎宮瞑が、きわめて論理的に解き明かしてゆく様子はもうそれだけで楽しいと思えてしまう。この論理展開が非常に緻密かつ簡潔であるのだが、その論理をほぼ同じレベルのクオリティで五本も仕上げてしまう力量には恐れ入る(無論そう思わない人もいるだろうが)。

 主人公である瞑の素直クールなところもポイントが高い。普段はスカに対して馬鹿にしたような態度をとり、まるで召使いに接するかのようにふるまう瞑だが、この様子がまた面白い。以下はスカが瞑を予備校の屋上から移動させようとするときのシーンである。

「立ちなよ、瞑。そろそろ帰らないと、家の人が心配する」
 瞑が脱ぎ捨てた靴やスカーフを拾い集めて、僕は言った。
「嫌よ、だって私はとても疲れているの」
 瞑は無表情にそう告げる。そして死体のようにぎこちない動きで腕を上げ、冷ややかな声と尊大な口調で僕に命じた。
「あなたが運んで」

 一体何処の薔薇人形だと突っ込みたくなるが、それを人間である彼女が口にするところが妙に艶めかしく、非常に魅力がある。そんな彼女がスカに頭を撫でるときには、されるがままに大人しくしている様子などもまた、彼女のギャップを如実に表していてとても微笑ましい。そんな彼女自身が抱える問題は小説ではありふれたものであるけれども、話のメインはそこには無いので気にならない。

 きわめて良質なミステリにきわめて良質な萌えの要素がミックスし、きわめて良質な作品が生まれた、その一例を見た気がする。そして最初にこのような作品で三雲岳斗に出会えたことに感謝する私は(以前から気になってはいたのだが)、当然ながら他の作品も気になって仕方がない。

古橋秀之『ブラックロッド』

ブラックロッド (電撃文庫)

ブラックロッド (電撃文庫)

 魔導の技術により発展してきた異形の積層都市「ケイオス・ヘキサ」。この街に一人の隻眼の男が潜む。名はゼン・ランドー。いくつもの都市を奈落堕ちさせてきた危険人物は、この街である試みを企てる。
 その男を追う一人の人物がいる。魔術による犯罪者を追う公安局・魔導特捜官。黒い外套に身を包み、巨大なロッド――呪力増幅杖を手にするその者達は、ブラックロッドと呼ばれる。ブラックロッドに名前はない。ブラックロッドは感情を持たない。だが、ランドーを追うブラックロッドは、どこか他の者達とは違う。その追跡は単なる任務なのか。それとも妄執によるものなのか。彼は降魔局の妖術技官・ヴァージニア9と共に、ランドーの行方を追う。
 そして彼らとは全く接点のないはずの男、ビリー・龍。ケイオス・ヘキサの最下層で探偵業を営む彼は、精密機器の大手企業であるマグナス・クロックワークス社から、人探しを依頼されるが――。


 第2回電撃ゲーム小説大賞<大賞>受賞作。ウィキペディア等では「その後の電撃文庫の流れを決めた作品」と言われることもある同作品である。その練りこまれた設定や造語表現、わずか二百ページ強のページ数に詰め込まれた濃密な展開は古橋秀之という作家の力量をわからせるのに充分ではあるのだけれども、いかんせんその後出てくる多くのサイバーパンク小説のアーキタイプといった感じが強く漂っているのもまた事実であり、例えば読者を楽しませるような仕掛けといったものが不十分な感じはする。

 同作は1995年に電撃ゲーム小説大賞(現在の電撃小説大賞)を受賞しているわけだが、この一年後に、同じく日本のサイバーパンクを牽引している冲方丁が、やはりライトノベルの舞台でデビューしている(冲方は1996年に『黒い季節』で第1回角川スニーカー大賞<金賞>を受賞している)。『黒い季節』のジャンルはサイバーパンクではなく、むしろ伝奇的な要素を含んだものであるが、『ブラックロッド』同様、その設定は非常に練りこまれていて、重厚なライトノベルという矛盾した、しかし歓迎すべき一面の先駆者となったといえるだろう。

 電撃文庫スニーカー文庫、この二つのレーベルが持つ新人賞にとって、ごく早い段階で古橋、冲方という作家を生み出すことができた効果はおそらく非常に大きいはずだ。作品はその作品が属するシーンが成熟しなければ発展しないと考えている私は、『ブラックロッド』が一般のファンタジーやSFではなく、ライトノベルの新人賞に投稿された影響は大きいと思っている。

 憶測だが、既に確固としたジャンルが確立されていたSFやファンタジーよりも、それまで特にジャンルを絞らずに、「面白ければ何でもオッケー」であったライトノベルの方が『ブラックロッド』は受け入れられやすかったのではないか。その結果、ジャンルの幅広さはあっても作品の質の高さにムラがあったライトノベルを、底上げすることに繋がったのではないか(今でも質のムラは相変わらずだが、しかし「面白い」と言える作品が多くなったとは思う)。結果、作品の質が高くてジャンルに規定のない「ライトノベル」の新たなフィールドが出来上がり、そこから一般紙に転向しても充分に活躍できるだけの作家がどんどん生まれて行ったのではないか、と思うのである。

 無論これは活字メディアだけが引き起こしたことではあるまい。アニメやゲームで見てみたいと思わせるようなこの作品は、元をたどればそれまで成長してきたエンターテイメント市場の影響もあるだろう(古橋は元カプコン社員、冲方は元セガ)。活字以外のメディアで成熟してきた様々なものが、再び活字メディアに戻り、今までにない面白みのある小説が誕生した、その一つが『ブラックロッド』であり、また『黒い季節』である気がするのである。