森博嗣『幻惑の死と使途』

幻惑の死と使途 (講談社ノベルス)

幻惑の死と使途 (講談社ノベルス)

 内容:天才奇術師・有郷匠幻がマジックの最中に殺害された。目撃者は観客全員。疑われる3人の弟子達とその関係者。けれども犯人も殺害方法も不明なまま。世間を騒がせたまま有里匠幻の葬儀が行われるが、そこで起こる不可解な出来事とは。N大学4回生の西之園萌絵は大学院入試の傍らで、論理的に事件の解決を試みてゆく。

 犀川創平・西之園萌絵シリーズ、通称S&Mシリーズの6冊目。ちなみに森博嗣の小説を読むのもこれで6冊目で、第一作目である『すべてがFになる』から順に読んでいることになる。

 今回はミステリとしては少し中途半端な印象。ひねったトリックもなく、ミステリとしては不満の残る出来かもしれない。けれども私自身は今回も非常に楽しめた。その最大の理由は、私がS&Mシリーズを最初からミステリとしてではなく、犀川先生と西之園萌絵の会話を中心としたコメディとして読んでいるからだろう。

 そういうわけだからミステリとしての出来などどうでもいいと思っている私は(もとからミステリ初心者だろうということはさておき)、今回の注目すべき点もすべて犀川・西之園の言動にあると思っている。その中でもとりわけ挙げるべき箇所は、前5作までの作品内では犀川先生が最後に探偵役として推理を行っていたのに対し、今回は最初から最後までそのほぼすべてを西之園萌絵が行ったことだろう。今回の西之園は有里匠幻の事件を追いかける過程で、今までのような「いちミステリファン」としての推理を行うのではなく、きわめて論理的な推理を行ってゆく。その様子は犀川と極めて近しいタイプの推理方法であり、前作と比較して彼女の成長を伺うことができる。

 そして中でも一番注目すべき部分は、その論理的思考の構築過程と並行するかのように行われる、西之園萌絵の自発的な思考の構築だろう、と私は思う。(犀川のことをもっと知りたいという動機があったにせよ)前作から研究の楽しさに気付き始めた西之園は、今作では力学の楽しさに気がつきはじめる。さらには力学にのめりこんでいるせいで、力学以外の事柄がよく見え始めてくるというミスディレクションを実感し、このミスディレクションは、人間の思考の最終目標なのではないか、という「思考」を構築するまでになる。

『(人間の頭脳がミスディレクションを起こすことについて)あるいは、これこそが、神様の仕掛けた意地悪パズル?
 いつだって、目標は、目標を目指す者に、別の方向から、突然ひょっこりと顔を出す。
 だから、このパターンに気がついた者は、「期待はずれ」を期待することになる。
 それはちょうど、「パン」という名前の物質に手を伸ばして、「パン」という名前とは異質で無関係な満足を得ることに類似している。
 つまりそれが、犀川が言った「ものには、すべて名前がある」という言葉の真意だろう
 その言葉でさえ、口にした瞬間に、ただの音波となる。
 概念のエコーだけが、人間に残る。』

 そしてこのことに前後して、西之園は犀川の人格が表層の厚い殻に覆われていて、実はきわめて破滅的な性格であることに既に気がついているという事実が書かれている。自発的な思考の構築と、大切な相手への本質的な理解の兆し。このことは西之園萌絵がもう一人の主人公である犀川創平と、肩を並べる域に追いつき始める位に大きく成長したことを表しており、これに付随するかのようにして時折現れる犀川の並行した人格も相まって、今後の犀川・西之園の関係をより面白くさせる要素であると思った。今後の二人の展開が非常に楽しみである。