古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)

 1943年某日。太平洋戦争において、日本がアメリカから奪取した唯一の島――アリューシャン列島・キスカ島。そこには四匹の軍用犬がいた。彼らは再び上陸してきたアメリカ兵の手によって本国へと連れて行かれ、その子孫達は数奇な運命をたどることとなる。ある犬は犬橇のリーダーとして。野犬の王として。朝鮮戦争の軍用犬として。家系図を持たない彼らは互いの親を知らぬまま、時に引き離され、そして世界のいたる所で邂逅する。まるで無数の犬が世界を席巻するかのように。
 199X年。ソ連崩壊後、エリツィン指導のロシア領内。ここにもその子孫がいる。名前はベルカ。偉大なる犬の名前を受け継いだ一匹の犬と、大主教と呼ばれる元将校、そしてベルカと同じく偉大なる犬の名前を受け継いだ日本のヤクザの娘。資本主義に「堕した」ロシアを糾弾するために、彼らは行動を開始する。人間ではなく、犬による糾弾を。


 この作品についてのありふれた意見であるかもしれない、ということは承知の上だが、犬好きの方は読まないほうがいい。特に、犬をペットとして接することしか知らない方は、読んでいて辛くなると思う(蔑視しているのではなくて、むしろ犬=ペットという認識しかない人はぜひ読んだ方がいいと思うが。犬と人間の関係についていろいろと考える契機になる、かもしれない)。

 とにかく、犬がたくさん死ぬ。それはもう惨たらしく。共産主義と資本主義の対立が「熱かった」時代を背景に、ある犬は軍用犬として、過酷な犬橇レースの犠牲として、マフィアの抗争に巻き込まれて、死ぬ。犬は人間の戦争がどういう意味を持つのかなど知らないし、知りようもない。ただ、何とも形容しがたい己の血が、犬達を突き動かしてゆくのだ。生きろ、という意志が、うぉん、という咆哮に変わる。史実を多分に含んだ舞台の中で、無数の犬が世界を駆けてゆく。

 まるでゴミのように扱われてゆく仔犬たち。溺れ、潰され、衰弱する様子などは、読んでいて苦しい、という感情さえ抱かせてはくれない。古川の文章は、目の前に起こった事実を淡々と描写していくかのようにして紡がれていくからである。それは犬に対する冷たい眼差しの表れだろうか? 違うと思う。あとがきにおいて執筆は死闘であったという古川の言葉からもわかるように、その場面描写はむしろ人間と犬の関係について深く考え、搾り出すようにして言葉を書き付ける古川の叫びのようにも見える。

 フィクションだと古川は言う。けれども犬を道具として酷使してきた過去は実際に存在する。そしておそらく、道具として扱われる限り、犬が命を落としても人間が悲しむことはない。だってただの道具なのだから――けれども、大主教とヤクザの少女と、犬達の信頼は何と表現すれば良いのか。そこに人間のコミュニケーション方法である言語が介在する余地はないのに(実際に大主教とヤクザの娘の会話でさえ、文字通りのコミュニケーションは成立しないのに)、彼らの様子は、まるでそこにコミュニケーションが成立しているようにしか見えないのである。

 その絆は人間とペットという関係ではなく、主人と下僕という関係でもなく、使用者と道具という関係でもなく、ただただ対等の関係である。大主教は犬を人間よりもはるかに優れた仲間として、ヤクザの少女は自分が偉大な犬の生まれ変わりであるという意思を持って、そして犬達は彼らを種族を超えた仲間として、互いに互いを受け入れる。

 史実に絡めた壮大なフィクションという形式を採るこの作品において、そのスケールの大きさと物語の構成力に話の出来を見て取ることが出来るのはもちろんそうだが、やはりこの作品の一番の魅力は、上記のような人間と犬の関係を描いた点であると思えた。

 人間と犬が対等だって? それは人間が抱えた妄想であり、人間だけが抱く幻想だろう?

 その通りだ。そしてそんな幻想を抱けるのは人間だけであり、その幻想をフィクションとして小説にできるのもまた、人間だけだ。