円城塔『オブ・ザ・ベースボール』

オブ・ザ・ベースボール

オブ・ザ・ベースボール

 『オブ・ザ・ベースボール
 ファウルズという名の街。南北に走るメインストリート、東西に流れる河川、その周りに幾つかの店や住宅が立ち並ぶだけの街。ここには自警団が存在する。彼らは州の役所から支給されたユニフォームに袖を通し、バットを握り締め、ほぼ一年に一度起こる出来事のために日々訓練を重ねている。
 この街には、空から人が落ちてくる。
 落下する人間の正体はわからない。何処から落ちてくるのかもわからない。何のために落ちてくるのかも以下同文。
 いつの間にかこの街に住み着いた「俺」は、自警団の四番として、落下してくる人間を待ち続ける。ソレを、打ち返すために。

 『つぎの著者につづく
 リチャード・ジェイムス(R氏)という作家がいた。主人公である「私」はこの作家の名前は知っているものの、作品については全く知らない。では私が今ある作品を書き始めたとして、それがR氏の作品と一字一句に至るまで、全く同じものを書き上げることは可能だろうか。可能性としてはYESである。この不可能に限りなく近い行為を私はある賭けと見なす。実際に書き上げることができたならば賭けは私の勝ちである。だがその勝利は必然的に敗北を包含しうる。つまり全く同じ文字列を書き上げてしまうという神憑り的な偉業は、何者かに不正に操作されていることを意味してしまうからである。可能性と不可能性の狭間で、私はその行為について思考し続ける。


 第104回文學会新人賞受賞作であり、第137回芥川賞候補作でもある表題作『オブ・ザ・ベースボール』。空から落ちてくる人間をバットで打ち返そうとする主人公、という設定は、安部公房のようなテイストながらも、今ならばラノベでも扱えそうな気がしなくもない。だが内容は良い意味でも悪い意味でも、非常にシンプルかつストイックである。おおよそ読者を楽しませるための仕掛けといったものはなく、ただ人が落ちてくるまでの主人公と住民と街の様子が淡々と書かれ、実際に人が落下し、そしてオチがあるだけだ。

 このあまりに単純なプロットに、様々な思考が肉付けされてゆく。例えばほぼ一年に一度という周期で「実際に」人が落下してくる現象に付随して、確率の三大法則の話が始まったり、バットそのものについて、バットという品物はバット以外の使用価値を見つけることは困難であり、携帯することもまた困難な代物である、といったような内容が語られたり。その構成は凡人には形成しがたいように見え、様々な引き出しを惜しげもなく披露してゆく円城氏の思考と才能が垣間見える。

 けれどもこれをエンターテイメントでもミステリでもSFでもなく、一つの文学的作品として見るのならば、何か心に響く一撃が足りないというのが私の素直かつ主観的な意見である。確かに最後のオチは面白かった。そのオチを目の当たりにした「俺」が、確定された未来を受け入れて、ソレを追従するかのようにしていく姿は何か考えさせられるものがある。けれども、あまり心に残るものがない。その理由はやはり――作者の意図かそうでないかはわからないが――主人公の人物描写が弱いという点にあるのではないだろうか。

 そうバッサリと結論付けるのもどうかとは思うが、街や人間の存在感のなさが――いわば構成に特化した形式が――この作品の特徴であると同時に、その特徴が読者に何かを訴えかけるには決定的に足りない要因であると思っている。読者の想像力が欠如しているとかいうレベルではなく(その可能性もあるかもしれないが)、このプロットにこの形式を合わせてしまったが為のことなのだろうと思う。


 『つぎの著者につづく』は、何とも形容しがたい。プロットらしきものはもはや存在しない。ある未読の文章を一字一句再現することの可能性について延々と語られてゆくその内容は、まるで哲学書の一部分を読んでいる気分になってくる。その思考過程における引用や註の波は、それらが妥当なものであるのかさえ私には理解できないほどに複雑である。

 なので一つだけ思ったことを断片的に記しておくならば、既にあるものを未見・未読のままそっくり再現できるか、という可能性の是非はとても興味深い。限りなくゼロに近いその可能性は、しかしゼロではないが故に可能性として存在しうるが、けれども神憑り的な確率であるが故に、再現されたとしても不正の烙印を押される。

 数学について私は全くの無知であるということを前書きした上で書くならば、例えば0と1の間隔と1と2の間隔は、1という距離があるという点において同じであるが、その意味は全く違うのではないか。0とは存在しないことを意味しており、存在する/しないの境界線を何処で引くのかは不可能であるように思える。ある数1/Xがあり、X→∞が定義されているときに、1/Xを0と定義することにはある種の暴力が働いており、本来ならばその数は「0に限りなく近しい、小さいもの」と表すのが正しいのではないだろうか。そうすることが、可能性というものを信じるか否かの分岐点であるような気がする。

 繰り返すが――いずれにせよ、0に限りなく近いものは0でないが故に「存在する」のであり、それは0に限りなく近いがゆえに神憑り的であるという性質を有する。このことを文字列の再現の確率という命題に置き換えて、あらゆる角度から思考を試みようとする本作は、あえて小説という形式を採るがゆえに非常に難解なものとして仕上がっている。

 前作『Self-Reference ENGINE』も難解だった。もうここまでくると、この難解さがひどく心地の良いものであるとさえ思えてしまう。円城氏には、今後読者のレベルに合わせるなんてことはせずに、ひたすら行けるところまで行ってもらいたい。