安部公房『人間そっくり』

人間そっくり (新潮文庫)

人間そっくり (新潮文庫)

 <こんにちは火星人>というラジオ番組の脚本家である私のもとに、ある日妙な男が訪ねてくる。自分は火星人であると言い張るこの男の正体は、ただの気違いなのかそれとも本当に火星人なのか。二転三転する男の発言を聞いているうちに、私は火星人の存在を意識し始めると同時に、自分が何者であるのかわからなくなってゆく。


 まさに『世にも奇妙な物語』。自称火星人を疑う主人公が、いつのまにか火星人の存在を肯定し始め、そして自分自身のアイデンティティーを崩壊させてゆく流れは、面白いというよりも不気味である。自分は本当に正常であると言い切れるのか。生まれてから今までの記憶が、すべて創作でないと誰が保障してくれるというのか。あなたは火星から来たにもかかわらず、自分を人間であると信じ込んでいる<地球病>に罹っているのかもしれないし、自分は人間であるにもかかわらず、自分を火星人であると信じ込んでいる<火星病>に罹っているかもしれないのに。

 それをただの妄想であるなどと誰が言い切ることができるだろうか? その妄想さえも典型的な症状の一つなのかもしれないのに? 精神病は、いつだってまともな弁明ができないものである。そして正常であると思い込んでいるこの世界は、既に寓話であるのかもしれないのだ。現実・虚構の区別の崩壊について、そんな区別が本当にあるのかといった問題について、この作品は真正面からぶつかってくる。


 ところでSF初心者である私には、この作品に附された福島正実の解説が非常に面白かった。解説と銘打ったこの文章において、作品に関する言及は殆どない。福島正実はここで安部公房がSF作家の一人であることを認めた上で、SFというジャンルが目指す方向性について、おおよそ次のようなスタンスを採っている。

 ――大衆文学として成立したアメリカSFの影響をもっとも強く受けた日本のSF中毒者の多くは、SFとはアイデアが優れ、エンターテイメントとして円熟したものであれば、それ以上を目指す必要はないと考えているとしている。そして、エンターテイメントとしての完成を最終目標とすることは、SFという形式によって、それ以外の形式では表現できない何かを表現しようとした、福島の目的を失わせてしまうことになると、強い警戒感を顕にしている。

 この解説から、福島正実が日本のSFを文学的要素の強いものとしたかったということが見て取れる。そして安部公房という、SFと文学を極めて高いレベルで融合させる稀有な作家に対し、強い信頼と愛着を持っていたこともまた、解説の節々からうかがうことが出来る。

 私はSFであろうがミステリであろうが、面白ければそれで良しと考えているし、文学的作品もまた同じであると思っている。そういう明確な価値観を持たない価値観が低俗な大衆小説を生み出すきっかけになるのだ、という意見も尤もだとは思うけれども、じゃあ低俗な大衆小説って何なんだ? という「お決まりの」反論を真摯に聞いてみたくなるし、自分でも考えてみたくなる。自然主義派からすれば浪漫主義は低俗である以前に小説でさえないと言うだろうし、ライトノベルしか読まない者はケータイ小説を低俗だと見なすかもしれない。そもそも小説そのものさえ低俗なものと見なす人もいるというのに。

 SFは文学となり得るかという問いに対し、私は明確な答えを持たないし、答えを持つことに意味もないと考えている。SFはすべて文学的要素を有するべきだなどという論はさすがに賛同できないけれども、しかし文学的要素を持つあるSFは生まれ得るかという可能性については、有ると思っている。文学は人間の持つ諸問題を解決するというが、そもそも小説が虚構であり非現実であることに変わりはなく、それはたとえノンフィクションであったとしても同じである。そこにSFという「超」非現実なモノを持ち込んだとして、何の問題があるというのか。非現実なものが現実の問題を解決するのに、「超」非現実なものが現実の問題を解決できないという論理は不自然であり、一定の可能性があることを否定することは出来ないのではないか。

 けれども安部公房が『壁』で芥川賞を受賞してから、先日挙げた円城塔が『オブ・ザ・ベースボール』で文學界新人賞を受賞するまでの歴史を見ていると、仮にSFが依然として冬の歴史の真っ只中にいるとしても、少なくとも福島が望んでいた形は、ジャンルという線引きが明確なものではなくなった現代において、部分的に成されようとしている、と私は思うのである。