『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』

 一年戦争末期、連邦軍の新型のMS搬入の情報を手に入れたジオン軍は、その奪取および破壊のためサイクロプス隊を向かわせる。しかし作戦は失敗、新型MSを取り逃がし、サイクロプス隊は戦死者を出してしまう。それから暫く後、ジオン軍は目標のMSがコロニー・サイド6に搬入されたとの情報を得る。シュタイナー隊長はサイド6におけるガンダム奪取作戦=通称ルビコン作戦を指示。ガンダム奪取のためにザク改による部隊を展開する。

 サイド6に住むアルフレッド=イズルハは戦争とMSに憧れる少年の一人だった。コロニー内に侵入してきたザク改のうちの1機が連邦軍に撃墜され、学校の不時着するのを追いかけたアルは、裏山でジオン軍パイロットに遭遇する。それは、新たにサイクロプス隊に編入された新人兵、バーナード=ワイズマン(バーニィ)だった。


 ガンダム初のOVA作品。少しでもガンダムを齧ったことのある者ならば、ガンダムの世界が連邦=善、ジオン=悪という対立などという単純な図式ではないことを知っているだろうけれども。しかしこれほどジオン軍を中心にした作品は他にないのではないか、と思う。

 ガンダム奪取という名の囮にされたサイクロプス隊と、隊で唯一そのことをを知るシュタイナー隊長の苦悩、新人であるバーニィにきつく当たりながらも、死ぬなと諭すガルシア、一年戦争でジオンが負けるとわかっていながらもシュタイナーに付き従うミーシャ、敵からも味方からも支持されることなく突撃してゆく彼らの姿とそのやりきれなさは、戦争が兵隊にもたらすある種の歪みを体現しているように思える。

 そして最終的にサイド6を守るため、単身ガンダムに戦いを挑むバーニィの姿を理解してあげられるのは、未だ小学生であるアルしかいない。バーニィと互いにほのかな想いをめぐらすガンダムパイロット、クリスチーナ=マッケンジーは、結局ザク改のパイロットがバーニィであることを知ることなく、彼を撃墜してしまう。事情を知るものはアル一人であり、それは小学生である彼が背負うにはあまりに大きな出来事である。だが結果として彼は知るのだ、戦争を無邪気に楽しむことが出来るのは子供だけであり、その裏には多くの悲劇が絶えず起こっているのだということを。重たいストーリーではあるが、非パイロット=アルの視点からみたガンダムの世界はそれまでに例がなく、ある意味でガンダム作品の中では異色であるといえるだろう。

 異色である点はもう一つある。それはMSでの戦闘が極端に少ないということだ。最初のズゴック隊による襲撃を除けば、あとは散発的な戦闘があるのみであり、ガンダムにいたってはわずか2戦しかしていない(しかも短い)。このことから本作はMSによる戦闘がメインではなく、あくまで登場人物の描写が中心であるということが解る。

 特にアルの成長についてはよく描かれていると思う。最初の方のアルは学校に、大人に対して鬱屈した感情をもてあまし、八つ当たりとしてシューティングゲームで建物を壊しまくり、戦争という非日常に憧れる「典型的な」少年に過ぎなかった。やがてバーニィに出会い、その結末を見届けることが、皮肉にも彼自身の成長に繋がってゆく。殺らなければ殺られる、だがその結果として大切な人たちを失ったのだということを自覚したアルは、否応なしに大人へと成長させられる。劇中でのアルの父親が最後の方で不意にこぼす、「あいつ、落ち着きが出てきたな」という言葉は何とも的確である。的確すぎて、否応なしに大人になってしまったアルの心中は察して余りある。

 手放しで面白かったとは言えない。特に一つの映画を6分割したかのような構成については、私は大きなミスだったと思っている。前半のアルとバーニィの出会いと協力、バーニィとクリスの邂逅については、もちろんこの部分がなければ作品全体の盛り上がりに欠けるということがわかっているとはいえ、少し冗長に過ぎるというイメージが拭えない。むしろ始めに映画1本の長さと割り切って製作していれば、もっと内容の凝縮した、質の高い作品になっていたのではないかと思えてくる。だが凝縮された内容と、話のクオリティの高さは必ずしも不可分ではない。確かに冗長ではあったが、その分アルとバーニィ、クリスの関係についてはきちんと描かれていると言えるだろう。